戦い方の探索者

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論語15-32 教養人は善い生き方を追求

自らの人生において何を追求するか、その姿勢への覚悟のお話。

 

でもまあ、
「(善い生き方を目指す)学問なんて、食べていくことには何の役にも立たないだろ」
と、当時も言われてたんだろうなぁ、と思われるようなお話でもあります。

 

たしかに、直接的に稼げるものではありませんが、「誰もが善い生き方を無視して(=公共性を持たずに)自分が食べていくために己の利益だけを追求する」ようなことになると、それはそれで社会がうまくいかなくなるので、危険なんですよね。

 

数理経済学者によると、経済学で言うところの「(神の)見えざる手」の効果は、人間が適切に規制(公共性の観点からの規制)を設けてやらないと働かないそうですし。
個人が完全に好き勝手やると、公害など(の外部不経済)が生まれるので、善い生き方(公共性)によるタガは社会に必要のようです。

 

まあ、人の上に立つのであれば、社会全体の利益を考えた制度設計をできるようにするため、善い生き方の追求をすることは間違ってはいないのではないでしょうか。
(おそらく、孔子はこのポジション)

 

(もちろん、人の上に立とうとしなくても、周囲の善き人とうまくやるためには、善い生き方は必要だと思いますが)